#此篇摘錄是為了讓更多人能正確完整地認識大野一雄舞踏。日本大野一雄舞踏研究所對於原文與有絕對的版權,中譯本也已交付兩廳院出版,任何引用請加以尊重。
魂の糧
一番大切なのは、顔、顔の表情です。その動きがどこまで深まっていったか。表情を見るとよく表れてしまっている。隠しようがないところです。こういう写真(右頁)を見てみると、やっばり僕らにはとても及びのつかない表情が出ている。
こういう顔がひとつ出来上がってくるために、大野一雄の方法論がある。
最為重要的是,臉,臉部表情。其動作深入到什麼程度,仔細觀察表情即可發現動作深度都顯現在上面。那是無法刻意隱藏的。例如看著這張照片(右頁)即可知道,對於出現在他面容上的表情我們果然是望塵莫及。
為了表現出這樣的表情,大野一雄有其方法論。
だけども無心だからなんにも考えなくて、何もかも忘れているかというと、そうではない。覚醒している部分がどこかにあります。全部何もかも捨てて忘れてやっているわけではない。無心というこだわりがない状態では、すべてのものが湧きあがってくるからです。
次々に出てくるもの、たとえば先ほど言った文字で書いてる「宇宙」が出てきます。ですから、一方に覚醒した部分、非常に意識的に見ている世界があって、そして無心に臨むと。そこで初めて無心になれる。からだというのはそういうふうにできている。何かにこだわったり、あれこれ考えるものだから肝心なものが出てこないんです。
然而因為純粹的心所以不做任何思考,將一切都拋諸腦後,並非如此的。在某處仍有著清醒的部份。並不是把一切全都捨棄遺忘。因為在不執著於純粹心境的狀態下,所有的一切都會湧現出來。
接二連三所出現的,比如先前說過用文字寫下的「宇宙」會浮現出來。因此,另一面清醒的部份,有著特別有意識地去凝視的世界,然後以純粹心境面對。在那時候才第一次能進入純粹心境。身體就是那樣形成的。因為對某些事物太過執著,或東想西想,所以最重要的東西就無法湧現。
一雄がよく言うのは、目が足の裏まで降りてかなきゃいけないんだと。それぐらい目は力を持っているという。向こうの方向を見ているんだけども、その目は肉体を通って足の裏にギュッと、目が来てるんです。そうするとこの目は強くなります。
反対に、いくら遠くをただ睨み付けてもその強さはたかが知れている。たんに目でものを見てもいけない。あるいは、ものを見る目で踊るなんてことはあり得ない、と一雄は言います。昔はよく目だけで稽古していました。
しかし僕は練習する時は、「ものを見ない目」を獲得するためには、まず「見る」ってことをしっかりとやる必要があると思う。「見る」ということが分かって、初めて「見ない」ということが成立しますから。
一雄一再地強調,眼睛下降到腳底的必要性。眼睛擁有這等程度的力量。即使看向前方,雙眼則是經過肉體往下走然後緊緊地,雙眼繫在腳底。這樣一來注視就變得更強。
相反地,不論如何只是瞪大雙眼目視遠方,那個強度是有侷限性的。不能只是用雙眼的視覺去看。或者說,用一般看事物的雙眼去跳舞是不可能的,一雄這麼說。過去常常只以雙眼來練習。
然而我在練舞時,為了獲得所謂「不去看的眼睛」,我覺得需要先徹底做好「看見」這件事。當清楚瞭解「看見」後,才能實現「不去看」。
ワルツとかタンゴを踊る時、一雄の中では、手の甲に目が付いています(写真右頁)。手が目になります。手で見て踊っている。踊るときには、肘にも目がある。
これが長年培ってきた一雄のダンス性だと思います。これは外側の動きのダンスですから、外側にいった時は直接目で見ないで肘とか甲とかで見ている。まさに肉体そのものが目。全体が目です。
在跳華爾滋或是探戈時,對一雄來說,眼睛會附著在他的手背上(右頁 照片)。手會成為雙眼。依靠雙手來凝視及跳舞。在舞蹈的時候,手肘上同樣也有著眼睛。
我想這是經年累月培養出來一雄的舞蹈特色。因為華爾滋或探戈等是外部動作的舞蹈,然而他不是直接將目光放在外界的事物,而是用手肘和手背去看。可以說整個肉體本身就是眼睛。全體都是眼睛。
足が植物の根であるとすれば、手は枝の最先端です。だから一雄がよくこう言います。
「花をよく見てごらん。咲いたらね、枝の先まで花をつけてるよ。でも、あなたの手は、先が死んでるよ。だから花がつくように、木を見て。こうして枝の先まで花咲いてるじゃないか」と。
あるいは「もっと生き生きとするようにしなさい。根はこの通りちゃんとしている。手が死んでたんじゃね、だめなんで、生きるってことは木を見ればわかるじゃないか」って。
如果把腳看成是植物根部的話,那麼手就是枝幹的最前端。所以一雄經常這麼說。
「仔細地看看花吧。當花盛開時,一直到枝幹的最前端都開滿繽紛花瓣。但是,你的手,最前端毫無生氣。所以要像花朵一般注視著樹。你看這樣的話直到枝葉的最前端不都開滿了花朵嗎?」
他也時常說「要有如生命一般更加生機盎然。根是如此地好好運作著。手枯萎凋零的話,是不行的,所謂的生命只要觀察樹木就能知道不是嗎。」
「木の成長は見えないけれども、数日経てばちゃんと成長してるのがわかるじゃないか。命っていうのはそういうあり方をしてるんだから動いたのが見えなくたっていいけども、やっばり成長しているってことは意識の中で持たないといけないよ。人に見えなくたっていいんだよ。何もしてないと見えたって、そこにすっと伸びてれば、その手は違う手だよ」といろいろ言います。
「雖然我們無法實際見到樹在生長,但經過幾天的時間就可看出它確實成長了不是嗎。所謂的生命就是以那樣的方式存在,所以就算看不見是如何生長的也沒關係,即使如此我們必須要自覺到生命正在成長。不被人所看見也無妨。雖然看起來靜止不動,但一下子伸展出來的話,那隻手已經截然不同。」說著種種這類的話。
繼續閱讀