《大野一雄:魂之糧x練習時的言語》 原文與摘錄

#本書為「魂の糧」「稽古の言葉」的合譯本,分別為大野慶人先生和大野一雄先生的講述記錄。
#此篇摘錄是為了讓更多人能正確完整地認識大野一雄舞踏。日本大野一雄舞踏研究所對於原文與有絕對的版權,中譯本也已交付兩廳院出版,任何引用請加以尊重。



大野一雄:魂之糧x練習時的言語

大野一雄:魂之糧x練習時的言語




                                                        魂の糧

     一番大切なのは、顔、顔の表情です。その動きがどこまで深まっていったか。表情を見るとよく表れてしまっている。隠しようがないところです。こういう写真(右頁)を見てみると、やっばり僕らにはとても及びのつかない表情が出ている。
     こういう顔がひとつ出来上がってくるために、大野一雄の方法論がある。
     最為重要的是,臉,臉部表情。其動作深入到什麼程度,仔細觀察表情即可發現動作深度都顯現在上面。那是無法刻意隱藏的。例如看著這張照片(右頁)即可知道,對於出現在他面容上的表情我們果然是望塵莫及。
     為了表現出這樣的表情,大野一雄有其方法論。

      だけども無心だからなんにも考えなくて、何もかも忘れているかというと、そうではない。覚醒している部分がどこかにあります。全部何もかも捨てて忘れてやっているわけではない。無心というこだわりがない状態では、すべてのものが湧きあがってくるからです。
      次々に出てくるもの、たとえば先ほど言った文字で書いてる「宇宙」が出てきます。ですから、一方に覚醒した部分、非常に意識的に見ている世界があって、そして無心に臨むと。そこで初めて無心になれる。からだというのはそういうふうにできている。何かにこだわったり、あれこれ考えるものだから肝心なものが出てこないんです。
      然而因為純粹的心所以不做任何思考,將一切都拋諸腦後,並非如此的。在某處仍有著清醒的部份。並不是把一切全都捨棄遺忘。因為在不執著於純粹心境的狀態下,所有的一切都會湧現出來。
      接二連三所出現的,比如先前說過用文字寫下的「宇宙」會浮現出來。因此,另一面清醒的部份,有著特別有意識地去凝視的世界,然後以純粹心境面對。在那時候才第一次能進入純粹心境。身體就是那樣形成的。因為對某些事物太過執著,或東想西想,所以最重要的東西就無法湧現。

     一雄がよく言うのは、目が足の裏まで降りてかなきゃいけないんだと。それぐらい目は力を持っているという。向こうの方向を見ているんだけども、その目は肉体を通って足の裏にギュッと、目が来てるんです。そうするとこの目は強くなります。
      反対に、いくら遠くをただ睨み付けてもその強さはたかが知れている。たんに目でものを見てもいけない。あるいは、ものを見る目で踊るなんてことはあり得ない、と一雄は言います。昔はよく目だけで稽古していました。
      しかし僕は練習する時は、「ものを見ない目」を獲得するためには、まず「見る」ってことをしっかりとやる必要があると思う。「見る」ということが分かって、初めて「見ない」ということが成立しますから。
      一雄一再地強調,眼睛下降到腳底的必要性。眼睛擁有這等程度的力量。即使看向前方,雙眼則是經過肉體往下走然後緊緊地,雙眼繫在腳底。這樣一來注視就變得更強。
      相反地,不論如何只是瞪大雙眼目視遠方,那個強度是有侷限性的。不能只是用雙眼的視覺去看。或者說,用一般看事物的雙眼去跳舞是不可能的,一雄這麼說。過去常常只以雙眼來練習。
      然而我在練舞時,為了獲得所謂「不去看的眼睛」,我覺得需要先徹底做好「看見」這件事。當清楚瞭解「看見」後,才能實現「不去看」。

     ワルツとかタンゴを踊る時、一雄の中では、手の甲に目が付いています(写真右頁)。手が目になります。手で見て踊っている。踊るときには、肘にも目がある。
     これが長年培ってきた一雄のダンス性だと思います。これは外側の動きのダンスですから、外側にいった時は直接目で見ないで肘とか甲とかで見ている。まさに肉体そのものが目。全体が目です。
     在跳華爾滋或是探戈時,對一雄來說,眼睛會附著在他的手背上(右頁 照片)。手會成為雙眼。依靠雙手來凝視及跳舞。在舞蹈的時候,手肘上同樣也有著眼睛。
     我想這是經年累月培養出來一雄的舞蹈特色。因為華爾滋或探戈等是外部動作的舞蹈,然而他不是直接將目光放在外界的事物,而是用手肘和手背去看。可以說整個肉體本身就是眼睛。全體都是眼睛。

     足が植物の根であるとすれば、手は枝の最先端です。だから一雄がよくこう言います。
     「花をよく見てごらん。咲いたらね、枝の先まで花をつけてるよ。でも、あなたの手は、先が死んでるよ。だから花がつくように、木を見て。こうして枝の先まで花咲いてるじゃないか」と。
     あるいは「もっと生き生きとするようにしなさい。根はこの通りちゃんとしている。手が死んでたんじゃね、だめなんで、生きるってことは木を見ればわかるじゃないか」って。
     如果把腳看成是植物根部的話,那麼手就是枝幹的最前端。所以一雄經常這麼說。
     「仔細地看看花吧。當花盛開時,一直到枝幹的最前端都開滿繽紛花瓣。但是,你的手,最前端毫無生氣。所以要像花朵一般注視著樹。你看這樣的話直到枝葉的最前端不都開滿了花朵嗎?」
     他也時常說「要有如生命一般更加生機盎然。根是如此地好好運作著。手枯萎凋零的話,是不行的,所謂的生命只要觀察樹木就能知道不是嗎。」

     「木の成長は見えないけれども、数日経てばちゃんと成長してるのがわかるじゃないか。命っていうのはそういうあり方をしてるんだから動いたのが見えなくたっていいけども、やっばり成長しているってことは意識の中で持たないといけないよ。人に見えなくたっていいんだよ。何もしてないと見えたって、そこにすっと伸びてれば、その手は違う手だよ」といろいろ言います。
     「雖然我們無法實際見到樹在生長,但經過幾天的時間就可看出它確實成長了不是嗎。所謂的生命就是以那樣的方式存在,所以就算看不見是如何生長的也沒關係,即使如此我們必須要自覺到生命正在成長。不被人所看見也無妨。雖然看起來靜止不動,但一下子伸展出來的話,那隻手已經截然不同。」說著種種這類的話。

     『ラ・アルへンチーナ頌』 の出だしのディヴィーヌのところは、床に伏して終わります。そのまま伏して死んで終わります。さらに同じ舞台の「日常の糧」でも、一雄は黒パンツで出てきて(写真次頁)、この時は、床に倒れます。
      その意味で、「膝から下の世界」という世界を一雄はもう一つ持っている。そこにもう一つの宇宙があるのだと思う。
     「膝から下の世界」というのは大事です。モダンダンスなんかでは、上に、重力に逆らってというふうな思いが強いでしょう。一雄の場合は、本人がそう感じた時、反対に落下します。その時の落下する速度は凄いです。あっというまに床にいってます。当然、即興で落ちます。頭でわかってそういう動きをしようなんていう速度ではない。
     『阿根廷娜頌』的開場「達維努抄」,是以趴在地上做為結束。就那麼倒在地上死去而收場。並且,同齣表演的另個段落「日常食糧」也是,一雄身著黑色內褲出場(次頁照片),然後就在這時,倒在了地板上。
      這意味著,一雄另外擁有一個世界,可稱為「膝蓋以下的世界」。我想在那裏有著另外一個宇宙。
     所謂「膝蓋以下的世界」是很重要的。對現代舞來說,想要往上、想抵抗重力這樣的想法是很強烈的吧。而一雄的情況,當他自己有那樣的感覺時,則是反向地倒下。此時落下的速度非常的快。剎那間就倒在地板上。當然,是當下即興地倒下。那絕對不是頭腦理解後再去行動所能出現的速度。

      「大野さんは立ち上がるときも全部踊りだ」と一度郡司先生がおっしゃっていたことがある。
      また立った身体は、上に突き抜けるように、どこまでもバーッと「上」にいっちゃっている感じがある。その時は、逆に力は「下」にあります。
      上にいくということは、下もあります。一雄はこういう時に、逆にキュッと下にいくもの、力が下に働いている。
      それは何なのかというと、「高さ」というものがあります。宇宙での自分の場所を決めるのです。だから立つという場合、どこに自分がいるのか。ただ立っている、肉体がそこに立っているという意味でなくて、その自分の存在が何であるのかということが、肉体的に知覚されないと、存在したことにはならない。舞踏家は、虚構の場で肉体を創造しなければならないのです。
      宇宙があって、空間があり、自分がそのどこにいるのか、ここからここまでという認識がちゃんとある。自覚と計算があるのです。
      ただしその時、ひとつのポイントがあります。胸と背中です。ここにポイントがあって、ここで測量して決める。そして一番大事なのはやっばり胸です。
      あるいは身体を反らして、下から肉体を突き上げる場合もあります(写真 右頁)。力が下から上へ突き上げてくる。そうすると背中が反ってくるわけです。
      これが大事なのです。突き上げてくるものが大事です。肉体の中に垂直の力が突き上げてくるのです。
      「大野先生即使只是站起身來也都是舞蹈」,郡司先生曾經這麼說過一次。
      仍在直立的身體,彷彿向上穿透出去,是能無止盡地啪一聲向上伸去的感覺。這時候相反地,力量是在「下面」。
      既然有往上,當然也會朝下。一雄在這樣的時刻裡,會反過來往下而去,全力地往下深入。
      該說那是什麼呢?是被稱作「高度」的東西。在宇宙間決定著自己的定位。因此在站著的狀況下,自己是身在何處呢?僅僅是站著,只是身體站在那裏是毫無意義的。究竟自己的存在為何,身體若沒有領會到這點的話,就稱不上存在過。所謂舞蹈家,就是能在虛幻的場域中將身體創造出來。
      宇宙中、空間中,自身是在何處?從這裡到那裡有著仔細的認識。因為有所自知及考量之故。
     但是當下,有一個要點。即是胸和背。這裡有個重點,在此處是以測量來判定的。果然得知最重要的就是胸部。
     也有彎曲身體,從下面將身體頂上去的時候(右頁照片)。力量從下往上湧出。這樣一來,背部就會彎曲。
     這是很重要的。湧現出來的東西是非常重要的。在身體之中有股垂直的力量湧上來。

     壁に身体が付いている。あるいは壁と向き合っている。壁の前に立ってる時、一雄は一個のオブジェになっている。完全にオブジェ化しています(写真 右頁)。
     完全に壁になっている時もある。よく舞踏を見てくださった方が、「人間も怖いようだけれども、一種のオブジェになっている」というふうにおっしゃったことがある。限りなく物質に近くなってる肉体。目が死者の目になってます。確かに怖さを持っています。
     身體附著在牆壁上。或者是面對著牆壁。站在牆壁前面的時候,一雄變成一個雕刻。完全地化為了物體(右頁照片)。
     偶爾也會完全地成為牆壁。時常觀賞舞踏的觀眾曾這樣說,「雖然人也很恐怖,但他變成一種物體了」。無窮無盡地趨近於物質的肉體。眼睛變得如死者一般。的確具有令人恐懼的東西。

     化粧は、能なんかでお面をつけるのと目的は同じです。ただお面ですと、お面のキャラクターのひとつの世界になってしまいますが、白塗りですともう少し自在に変身できる可能性が生まれてくる。
     化妝,和能劇戴上面具的目的是一樣的。只是面具的話,就會因為面具之角色而侷限於那個世界裡,而將臉塗白的話會更增加一些自由變身的可能性。

     ですからやっばり白なのです。これはひとつのものを付けるという作業でなくて、もしかしたら消していく作業なのかもしれない。作業としては消している。だからそれによって自在になれると。お芝居なんかになれば、ある意味で表情をつくるということになる。我々の作業は反対に消しているっていう意識が強いです。
     所以還是使用了塗白。這並不是個加上東西的程序,或許該說是一種抹去。作為一個抹去的步驟。所以可藉此成為自由的。如果改以戲劇來看,某種意義上是變得在做表情。然而我們這道程序反而是對抹去帶有強烈的意識。

     なぜ女性を踊るのかということは、本人もよく言っていますが、「女性になる」というよりも、「女に変身する」というよりも、命の一番の源にさかのぼる行為であると。そこに帰りたいと。だからそうするとどうしても母親と離れ難く、母親というものの存在へ入っているんだと思います。
     言い換えれば、生まれたての子供のダンスなんです。死と誕生のダンスです。
     至於為何以女性的姿態跳舞,他本人也常講,與其說是「成為女性」,或「變身成女性」,不如說是一種回溯至生命根源的行為。想要回歸至根源。所以這麼一來就很難與母親分離,會覺得正在深深進入母親如此的存在之中。
     換句話說,就是剛剛出生之孩子的舞蹈。這是死亡與誕生的舞蹈。

     亡霊的な、幽霊的なものをやるときは、タキシードを着てやります。こういう場合意識はここに存在していない。よく『死海』の時に言っていたのですけれども、愛を求める死者の足取り、死者なんだと。
     死者の意識は、ひとつは一個の生命が誕生するために犠牲になった他の多くの精子だと一雄は言う。根源的には、自分が成立するために犠牲になった死者のために一雄は踊ると言う。
     當扮演亡靈、幽靈般的角色時,就會穿著晚禮服。這樣的場合下意識已不存在於這個地方。於是在『死海』時常常會說到,追求愛的死者腳步,就是死者。
     一雄說,在死者的意識裡,有一項是為了誕生出那單一一個生命,而以其他眾多死者的精子作為犧牲。在根本的意義上,可以說一雄是為了那些因自己的形成而犧牲的死者而舞蹈的。

      やっぱりどうしても一人では、人間は不完全な存在です。
      土方さんが、まず踊りには形があって、形が大事でそれに魂がついてくるものだと言った。それに対して、一雄は魂があれば形はついてくるものだと言った。両方正しく聞こえる。けれど両方を一人でやることは不可能なんです。
     一雄はどうしても魂を先行させて、それに動きがついてくるようにしかできない。だから反対に僕が一雄とやる時には、僕は絶対に形を優先させて、形の世界をできるだけやるというふうになる。
     即使再怎麼樣僅是單單一個人的話,人就是不完整的存在。
     土方先生說,首先舞蹈要有形式,重視形式靈魂即會隨之跟上。然而另一方面,一雄認為只要有靈魂形式就會隨之而來。這二種說法聽起來都很正確。但同一個人要實踐這兩種方式是不可能的。
      一雄無論如何都只能以靈魂為先導,之後動作再隨之而來。所以相反地我和一雄一起演出時,我絕對會以形式為優先,盡可能的在形式的世界裡行動。


      たとえば『白蓮』の時です。舞台にあったピアノの曲線の形がきれいでした。僕はこの曲線を利用して踊ろうとした。一雄はそういうことはしない。もっと自由に踊りたい。そんな制約はいらないと。
      僕は反対にそのきれいな曲線を利用して踊りたい、それを舞台にして踊りたいと思う。一雄が踊らないなら、ちくしょう、じゃあ俺が踊ってやろうと思った。
      一雄は舞台全体を使って宇宙で踊る。僕はその限られた空間で踊る。そういうことがあってもいいと思う。
      よくスウェーデンボルグの言葉を引用して一雄が言います。「夫婦は天界にあって一人の天使である」。そういう関係かもしれません。二人で別々の要素があるけれども、現れてくるものは一つだと。一つのものであると。でなきゃいけない。一つのものが、そこに現れていなければいけないと。
      二人でやってもあんまり競演はしないです。競り合ってやっていくという形じゃない。両方があって一つの世界を、存在をつくってるという感じがある。
      例如演出『白蓮』的時候。舞台上鋼琴的弧線非常美麗。因此我想利用它的曲線來舞蹈。然而一雄不會這麼做。他說他要更自由地跳舞。不需要那些限制。
      但我仍抱持相反想法想要利用那美麗的曲線跳舞,想要以那曲線作為舞台跳舞。那時我想著:一雄如果不要,可惡,那麼我就自己跳!
     一雄是利用整體舞台在宇宙中舞蹈。而我是在那有限的空間裡跳舞。我覺得即使這樣也是很好的。
     一雄時常引用伊曼紐‧斯威登堡的話。「夫妻在天堂結合成一位天使」。我們大概是那樣的關係。即使兩人各自擁有不同的特質,展現出來的仍然是一個。那是一個整體。必須如此。一個整體,必須出現在那裡。
     儘管兩個人一起演出時也不會去比較,不是一較高下那樣的方式。我們兩人的存在創造出同一個世界、同一個存在的感覺。

   

      また母の慟哭みたいなものを一雄は表現しようとする時がある。一雄は一時、遊女も踊った。参勤交代かなんかで武士が来て、遊女とねんごろになった武士が帰ってしまう。そのことが辛く思われて遊女が狂女になってしまう。ふらふら歩いて口で呟いていたという物語。そういう物語の人に一雄は惹かれる。
      またそういう物語をきっかけに一雄は踊る。普通の女じゃもうだめなんです。どこか狂気の世界に入りこみ、狂気そのものの形を取り出したいと。そういうものが舞踏の世界として値する世界だと考えている。
      一雄の言う一番の狂気は、よく言いますが、何億もの精子が一気に卵子に向かって投入していくことです。それはまさに狂気の世界だと。それで結びつくのは一つの精子、一つの命しか生まれないのだと。
      誕生そのものが狂気だということです。その根源の狂気が、人間の中に記憶としてある。そこに根源があると思います。狂気の形と言ってもいい。
      そういう誕生の営みから外された命というものは、無駄な命ではなくて、ひとつの人間の感情の源泉になって、悲しみというものを人間に知らしめていると考えている。そのへんが一雄の原点だと思う。
      だから『わたしのお母さん』では、胎児の姿勢をとっているものもある(写真168 頁)。埴谷雄高先生が、「舞踏は胎内瞑想」であると、一言言われたのもわかります。
      另外,一雄也有打算表現出母親在働哭那般的動作。某段時期一雄也曾扮演藝妓。由於參勤交代制度之類的原因武士來到這裡,然後和藝妓相戀的武士終究又回去了。這件事過於痛苦,使得藝妓發了狂,她步履闌珊、口中念念有詞,是這樣的一個故事。一雄總會被這種故事中的人物所吸引。
      同時一雄以這篇故事作為跳舞的契機。只是一般女性的話是不行的。他想要鑽入某處瘋狂的世界,並將瘋狂原本的型態抽取出來。他認為那樣的世界值得作為舞踏的世界。
一雄說過最瘋狂的事情,是他常掛在嘴邊的,數以億計的精子一口氣朝向卵子狂奔進去。那是名副其實的狂癲世界。然而能與之結合的只有一個精子,只有一個生命能夠生出來。
      出生這件事本身就是一種瘋狂。那根本的瘋狂作為記憶存在於人們之中。我想在那裡存在著源頭,說是瘋狂的形體也無妨。
     在出生的行為中被淘汰的生命,並非是無意義的生命。它會成為一個人感情的泉源,向人們展現何為悲傷。我想那部份就是一雄的原點。
     所以在『我的母親』裡,有著採取胎兒姿勢的動作(照片168頁)。我能理解埴谷雄高老師說過的一句話,「舞踏乃是胎內的冥想」。

     ある意味で、舞台そのものがお母さんの胎内で、一雄がその中で踊っていると言ってもいい。あるいは『わたしのお母さん』 では、お膳そのものがお母さんです(写真右頁)。お母さんをいじめてるのか、遊んでいるのかもわかりません。これが一雄にとってお母さんなんです。畳の上で遊んでいるような軽さです。
      その時は、もう夢中で子供の目になっています。子供の目の軽さ。表現でもなんでもない。遊んでいるんです。
      在某種意義上,舞台本身就是母親的胎內,一雄可說是在那裡面舞蹈。又或者在『我的母親』裡,那小餐桌本身就是母親(右頁照片)。不知道是在欺負母親呢,還是在與母親玩耍。對一雄而言這就是母親。他像是在榻榻米上玩耍那樣地輕鬆自在。
      當下,他已經呈現出孩子般著迷的眼神。那是孩子般輕盈的雙眼。這已不是刻意的表現,而是真正在嬉戲著。

  一雄が土方巽さんと会ったのは、『鴉』の時が最初ですから一九五四年です。
     土方さんはその前に一雄の一回目か二回目かの公演を見ていて、一雄の存在を知っていたわけです。で、向こうから話しかけてこられて、「お茶飲みにいきましようしょう」つて言って喫茶店に行った。
      その後、『老人と海』ができる。毎日、池宮信夫さんがその台本を書いて、うちにやってきていた。そうすると土方さんも訪ねてくるようになった。後半はしょっちゅう土方さんが来られて、演出的なこともアドバイスをしていました。
     一雄與土方巽先生相遇,最初是在1954年的『鴉』。
     土方先生在這之前看過一雄的第一次還是第二次公演,所以知道一雄這個人的存在。然後,是對方過來搭話,「要不要去喝杯茶呢?」於是就前往了咖啡館。
     之後,『老人與海』完成。每天,池宮信夫先生寫了劇本後,會來到我們家。這樣一來土方先生也變得常常來拜訪我們。到了後半段土方先生總是會來,也會提供一些演出相關的建議。
     之後轉為『禁色』,再到『達維努抄』為止。這是一雄和土方先生最初的、也是一切的開始。從這時期起三島由紀夫先生及澀澤龍彥先生會來觀賞他們的表演。

      土方さんとの出会いの中で、一雄は根本的に変わったと思います。その前までは、モダンダンスや表現主義的な踊りを踊ってたんですけれども、この時から初めて「死」というものの考え方が本格的に入ってきた。
        その前まではどちらかというと生きる、「生」の側から見た踊りだった。この時から初めて死の側から物事を考えるということが始まったから、決定的に逆転したと思う。
      土方さんと一雄は、初めの頃は遠慮もあったりして、突っ込み合って話すということはなかったです。
      「先生、ディヴィーヌをお願いできますか、女装して」       「前、女装してたでしょ、シュミーズはいて踊ってらしたでしょ、ああいうのでどうですか」っていう感じでした。そうすると一雄は、「ああいいですよ、やりましょう」といった感じで答えていました。そういうふうな受け答えで、特にそこに衝突とか、意見の違いはなくて、土方さんの言われることをどんどんどんどん受け入れていった。
   土方さんも一雄を全面的に信頼していたと思います。だから今度これ先生お願いします、と言うと、わかりました、となる。全面的な信頼関係にありました。
     在與土方先生的相遇中,我認為一雄產生了根本性的變化。在那之前,雖然是跳現代舞蹈或表現主義為主的舞蹈,但在此時才第一次將所謂的「死亡」的想法正式注入在表演中。
     在此之前如果要說的話是從生存,是從「生命」的角度來看的舞蹈。而從這時開始首次以死亡的角度來思考事物,這樣開始後舞蹈有了決定性的逆轉。
     土方先生與一雄,在一開始也會有些客氣拘謹,不會互相徹底討論。
     「老師、能請您穿上女裝,跳達維努嗎?」
     「之前,有穿過女裝對吧,穿著貼身襯裙跳過舞對吧,像那樣子的如何?」像這般感覺的對話。然後一雄就會說,「喔喔可以啊,來跳吧。」這般的回應。像那樣的對答,沒有特別會產生衝突,也沒有意見相左,將土方先生所說的事情一股勁兒盡可能地接納。
     我想土方先生也是全面地信賴著一雄。所以下次他說「老師這個拜託你了」,就會收到「我知道了」。兩者間有著全面性的信賴關係。

      しかしある時、やはりうちで話した時に、一度だけ執拗に二人が議論したことがあった。一晩中続いた。土方さんが執拗に一雄に「神とは何ですか、先生はクリスチャンなんだから、神とはどういうもんなんだか教えて下さい」って言うんです。一雄はなにか言えばいいのに、一言も言わない。押し黙っているわけです。かなり長い間。
      それは一晩中朝方までその議論が続いた。一雄は答えなかった。神はあなたの中にいるとかそんなことも言わなかった。
        土方さんには、自分は神がわからない、あるいは神を信じないということがある。一雄は神を信じている。そうすると、一雄が信じてるから俺も信じるんだというそういう近寄り方は決してしない。やっばり自分は自分なんだということで、一歩もそういう関係においては、譲り合わない。
        ただ、作品をつくっているときも不思議なのですけども、つくり始めていく、そうすると途中で必ず行き詰まる日が一日くる。その日がくると、やはり、なんか不思議だけれど一晩中話しをする。
      一晩中話している時には、話している間は平行線なんです。ある時間、もうくたくたになる。それが平行線だということもよくわかってくる。ある時間にフッと、完全に行き詰まって、その途端に何か氷解するものがあるのです。ある意味でみんな捨てるのだと思う。自分を、です。
      そうすると、軽い、なんともいえない場面ができる。その場面が一番いい場面です、今までで。
      土方巽と一雄、かたや無神論かたや有神論で真っ向からぶつかりながら、ある時にどちらも捨てる。それは朝方です。不思議ですけどあれは、午前四時とか五時とか、白々となにか明けてきたなと気がついたその頃なのです。
      但是有一次,也是在家裡說著話時,就那一次兩個人固執地爭論不下持續了一整個晚上。土方先生很堅持地問著一雄「所謂神是什麼?老師您是基督教的,所以請告訴我神到底是什麼?」一雄明明可以說些什麼,但他卻閉口不語。很長一段時間都保持著沉默。
      那次議論從晚上延續至天明。一雄他沒有作任何回答。甚至神就在你心中之類的話也沒說。
      土方先生本身,有著不了解什麼是神,或者是說他並不相信神這樣的部分。一雄是相信神的存在。但是,因為一雄信仰神所以我也信神這種要去跟進的想法是絕對不會有的。果然還是得做自己才會是自己,關於這方面,即使是一步也不能退讓。
      然而,只要一創作作品,情況就會變得很不可思議。只要開始創作,在接下來的過程中絕對會有遇到瓶頸的那一天。一旦那天到了,果然,不知怎麼很奇妙地,他們就會談上一整晚。
      在整晚談論時,對話之間一直都沒有交集。到了某個時間,就會變得精疲力盡。也漸漸清楚地了解到那就是所謂的平行線。在那其中,會突然完全停滯不前,然而到了下一刻某個東西瞬間就冰釋了。我想這在某種意義上大家都捨棄了全部,捨棄了自己。
      這樣一來,就變得很輕鬆,形成了一個無法言喻的場景。那場景是至今為止,最棒的畫面。
      土方巽和一雄,一方是無神論者一方是有神論者,正面對立地互相爭論,到了某個時刻都會放棄。那個時刻是清晨。雖然很不可思議,但那是大約凌晨四點、五點時,差不多在天漸漸亮起的黎明時分,才驚覺到已至天明了。

       しかし土方さんが亡くなる前に、病院で本当に亡くなる数時間前に僕がいた時、土方さんが「慶人さん、神だけは怖い」って言った。その時の二人のやりとりと、最後に土方さんが「神だけが怖い」って言ったのとが妙に印象的です。その後、土方さんが「神の光を臨終してる」と言ったという話がある。
     然而在土方先生逝世前,也就是距離他真的去世的幾個小時之前,我在醫院裡,土方先生對我說了「慶人先生,只有神是可怕的。」那時兩人所作的交談,還有最後土方先生說的這句「只有神是可怕的。」格外令人印象深刻。據說土方先生之後還說了「在聖光中迎來最終」這樣的話。





                                                     稽古の言葉

     冷たい雨が降る。
     雨の降っている姿を想像する。ざあーっと降ったり、しとしと降ったり。稽古のときには昆虫の動きを見てみるといい。その動きを使ってトレーニングをするといい。あまりこういうことを考える人はいない。みんなあたりまえにすぎないと思うかもしれない。雨が降ってきた、風が吹いてきた、みんな自然現象ですよ。いくら上手にパントマイムをやったってだめなんです。考えたってだめなんです。じゃあ、何のために稽古するのか。
     落下了寒冷的雨。
     去想像雨落下的情景。嘩啦嘩啦地落下、還是淅淅瀝瀝地落下來。在練習的時候,試著看見昆蟲的動作。試著用昆蟲的動作來訓練是不錯的方法。然而能這樣想的人並不多。大家或許將其視為理所當然。雨落、風起,全部都是一種自然現象。不論默劇演得如何地好是不行的。或者是思考它,那都是不行的。既然如此,我們究竟是為了什麼而練習呢?

      ほんの一粒の砂のような微細なものでもいいから私は伝えたい、それならできるかもしれない。一粒の砂のようなものを無限にあるうちから取り出して伝えたとしても、それはあなたの命を賭けるに値することがあるだろう。大事にして、些細な事柄に極まりなくどこまでもどこまでも入り込んでいったほうがいい。今からでも遅くない。
      僅僅只是沙粒般微小的事物我都想傳達出來,這樣或許就真能實現。即使在無限當中取出並傳達出來的,是有如一粒沙般微小的東西,那也是你值得賭上生命的一件事吧。好好珍惜,對這些微不足道的小事極盡所能,徹底地直到最後都深深地鑽研吧。從現在做起也不遲。

      魚が一匹入ってきた。魚が一匹入ってきたことによって、ぐらりと変わってきた。それだけの違いです。魚が入ってきたおかげで、関係が、死が生を照らしているように、生が死を照らしているように、生がいきいきと。さあ、そういうなかで自由にやってごらんなさい、内的に。魚が一匹私のなかに入り込んできたとき、いつのまにか魚の目が私の全体を、あなたの全体をとらえるように。魚の目なかで、あなたの指の動きは、手の動きは何を語っているのかな。数学や科学ではとても解明することができなかった。今まで見たことがないような。いや私は何かに触れている。
      一隻魚闖進來了。因為出現一隻魚這件事,一瞬間就帶來了劇烈的震盪。多虧因為魚的出現,就如同死亡照亮著生命,生命照耀著死亡這樣的關係,使得生命更加生氣蓬勃。來吧,在這樣的狀態下試著自由地做做看吧,在自身內在。就像那隻魚跳進我們之間的方式。當一隻魚闖進我的身體中,不知不覺間,彷彿魚的眼睛已捕捉到我的全部,捕捉到你的全部。從魚的眼中,你手指的動作,雙手的動作是在訴說著什麼呢?數學與科學絲毫無法解開這個謎題。因為那是有如至今從未見過的事物。喔,我被某樣東西深深觸動著。

      舞踏の場というのは、お母さんのおなかの中だ。胎内、宇宙の胎内、私の踊りの場は胎内、おなかの中だ。死と生は分かちがたく一つ。人間が誕生するように死が必ずやってくる。常に矛盾をはらんでいる。われわれの命が誕生する。さかのぼって天地創造までくる。天地創造からずうっと歴史が通じてわれわれのところまで続いている。われわれはあんまり合理的にわかろうわかろうとして、大事なものがみんなぽろぽろぽろぽろ落ちてしまって、残ったものは味もそっけもないものになってしまう。
      所謂舞踏的場所即是母親的腹中。胎內、宇宙的子宮,我的舞踏場所正是胎內,母親的腹中。生與死是緊密相連的一體,就如同人的出生必然也有死亡跟隨,總是內含著矛盾,而我們的生命就這樣誕生。一路回溯到天地創始之時。從天地創始起,穿越歷史、延續至我們身邊。然而,就在我們過於理性地想要了解在我們四周所發生的一切之時,真正重要的事情卻是點點滴滴地流失,留下來的也將變得枯燥無味。

      ある気持ちにあなたが入っていったとき、その気持ちを、その気持ちから離れないように、その気持ちだけで限界のない世界に入り込むことができないだろうか。その気持ちが刻々と変わることなくして、それ一筋でどこまでもどこまでも突入する。飛んだっで跳ねったって転んだって、何をしたってその気持ちは離れない。だけど、どんな気持ちだっていいというわけではない。うん、これだと思ったとき、それをもとにして、どこまでもどこまでもただ一筋にその気持ちで織物を編むような、天まで届くような織物を編んでもいいでしょう。
      ある気持ちの限定したなかで、無限の世界に入ることができないだろうか。あとは自由だ。
      當你進入到某種情緒,某種心情,無法與其分離的那種情感,難道不能僅僅憑著那種情感去深入一個沒有極限的世界?那樣的感覺分秒都不會改變,你是一心一意沒有盡頭地闖進它裡面。儘管你飛奔著跳躍著,甚至滾來滾去,無論怎麼做那樣的感覺就是不會離開你。然而,這並非是說任何情緒都可以。「嗯,就是這個。」當這麼想時,以此為基礎,全心全意地用那份情感有如編織出一塊布來,編織出一塊能直達天際的布吧。
     難道在某個特定的情感中,就無法穿入一個沒有界限的世界嗎。在那之後就是自由了。

     海を渡る蝶
     海と蝶でもいい。
     海の中を飛んでいったっていいですよ。どんなふうに飛ぶか。
     海の中を泳いでる。
                                    *安西冬衛の詩集「軍艦茉莉」の[春」をめぐる大野の発言
     蝴蝶橫渡海洋
     不論是海與蝴蝶
     盡情飛越那片汪洋吧 你會怎麼飛翔呢
     在海中徜徉
                                     *以上是大野一雄在談安西冬衛詩集「軍艦茉莉」中的「春」

      みんなの目を見た。何かね、考えているような目が非常に多いんだな。こうしよう、ああしようって。目のやり場がなくなってしまう。そういうなかでさ、目がね、大事ですよ。宇宙の、宇宙が目のなかにすべて集約されている、要約されている。目がまるで宇宙のような。こういうなかで無心になることができる。目が開いている、目が。遠くを見るようにさ、瞳孔小さくして。見ない目ですよ、目に入っていない。宇宙がすっと入ってくる。そうすると、いつのまにか無心にもなれるんじゃないかと私は思ったわけです。探しているときは考えてるときなんだ。これじゃ無心になんかなれない。ものが生まれてこないですよ。
      目を開いて、そして見ない。手を出しても反応がない。そういう目のほうがいい。これもある、あれもある、さあどうしたらいいかじゃなくて、見ない目。無心になる。じゃ勉強しなかったのか。勉強して勉強して勉強して全部捨ててしまった。捨ててしまったんではないんだ。それが自分を支えてくれる。私はそういう踊りを見るとね、あんまり派手に動かなくたって、じっと立っているだけでも、ちょっと動いただけでも、ああ、いいなと思う。
      我一直看著你們的眼神。怎麼說呢,總覺得大多數的人的眼睛都在想著怎麼做。這樣做吧、那樣做好了,之後就不知該把自己的視線放在哪裡。在這過程中,眼睛啊,是很重要的。宇宙的,宇宙的一切都被匯集在眼睛裡,含括在眼睛裡。眼睛彷彿就是一個宇宙。在那裡面你就能達到空無的境界。雙眼正睜得大大地,雙眼。有如在注視著遠方,讓瞳孔收縮一些,不必聚焦在任何物體上,也不要讓任何東西抓住你的注意力。宇宙因此一下子就進來了。我覺得只要這麼做,不知不覺就能進入空無的狀態。試著尋找什麼時就是在思考。這樣就沒辦法進入空無的境界。東西是無法湧現的喔。
     打開雙眼,但不要去看,即使伸出手去也沒有反應。那樣的雙眼才好。這個也可以那個也行,那該怎麼辦呢,不是這樣的,是不去看的雙眼。就會變得空無。但以前不是都學習過嗎?不斷不斷不斷學習之後全部都丟掉。並不是捨棄啊,那仍會支持著自己。當我看見這樣的舞蹈,不需要華麗的動作,甚至僅是站著、只是稍微動作著,也會覺得「啊,真好」。


      人間の心のなかに密やかに、密やかに、誰にも気がつかないように飼い慣らしておった、そういう生き物が住んでる。もしかするとこれが天から、宇宙からわれわれに与えられた、神の思いが、分け与えられた魂ですよ。魂ですよ。ひよっとしてこれは、宇宙の分霊としてわれわれに与えられた命、その命を分け与えてくれた、宇宙意識、宇宙意識、宇宙の意識ですよ。われわれの頭もそうだけども、頭には問題が入っている。おなかの中には、腸や胃やいろんなものがあるでしょ。医学的に、えっ、あるんですよ。自体密声。いつのまにか治してくれるものがある。そういう仕組みに人間の体ができておる。ちゃんと宇宙の分霊として、それを受け取ってこうして生きていけば、体自体の中で、ちゃんと胃もあれば、腸もあれば、ちゃんと腸だって血液を作ってそして骨を作って骨の中の聖域を通って、体のいろんな部分と力をコンビネーション合わせながら、ちゃんと命をまっとうする力が、ちゃんとこんなかにあるわけですよ。ところが今の世界っていうのはね、頭を使うわけですよ。俺も相当なもんだなって、欲望がふくらんで、人を押し退けてやるようになるでしょう。いつのまにか戦争ですよ。私も戦争に行った。使いすぎるとだめですよ。命を大切にするために、おなかの中に腸がある、胃がある、胃と腸が中心だ。それを大切にする。
     人類的心中一直悄悄地,秘密地,不為人所知地馴養著某種生物,牠就住在裡面。或許,這是來自於上天、來自於宇宙所賜予我們,因神的意念而分送下來的靈魂喔。是靈魂啊。或許這就是從宇宙分送出來的靈魂所賦予給我們的生命,而那生命賜與了我們,宇宙意識,宇宙意識,是宇宙的意識啊。但我們的頭腦也是如此,問題會竄入腦袋之中。腹部之中,有著腸、胃等多數器官吧。就醫學來看,是的,正是這樣喔。自體密聲。有著這樣的機制會自然地療癒我們。人類的身體構造早已有這樣的特質。將作為宇宙所分送的靈魂,確實地將其接收並以此生存下去的話,那麼身體本身將會具有實實在在的胃和腸子,而那實在的腸子,會製造出血液,隨後形成骨骼,經過骨髓這聖殿,將身體各處與生命力結合起來,因而全然完成生命的力量,並確確實實地蘊含在自己身上。但在當今的世界裡,是得使用頭腦的啊。我這個人也是很厲害啊,一旦這樣想慾望膨脹起來,就漸漸開始將其它人排除在外。不知不覺間戰爭就出現了啊。我也曾加入戰爭。過度去使用是不行的啊。為了好好重視生命,在腹部中的腸子,還有胃,應以胃和腸子為核心。要珍惜它們。

      生きている人と死んでいる人と一緒に見ている。じゃ、私はどうなるのか。ある意味で死んだ霊が舞踏のなかで出てくる。お能のなかでは、幽玄という言葉があるでしょう。ほとんどのお能は、かつて死んだ人、亡霊的なものをテーマにして、ああだこうだとやるのがお能ですよ。私なんかは、死んだ人がこうして生きてるように真似をする、そうでなくてもっと、私は死者の恩恵をつぶさに受けて、ともに生きている、歩いていくっていうような、そういう気持ちで踊りたい。真似だけじゃとてもダメだ。真似以上にもっと実体として、あたかも実体があるようにして、想像力、人間がものを考えて、ってことも、自分が考え出してやるということでなくして、死者の恩恵によってやる。それが想像力だと思っている。自分のなかで頭働らかせて考えてこうするのは、想像力とは私には考えられない。
      生者與死者一起注視著。那麼,我會變得如何呢?某方面而言死者的靈魂會在舞踏中甦醒。在能劇裡,不是有幽玄這樣的詞彙嗎?幾乎所有能劇,都是以已死之人,亡靈做為主題,將這些都呈現出來的正是能劇喔。然而,要是我的話不會去模仿已死之人活著時的樣子,因為我完全接受亡者所給予的恩惠,而且一起活著,並肩而行,我想要抱持這樣的心情去跳舞。僅僅只是模仿是不行的。要超越模仿,更加地以實體,彷彿有著實體一般。想像力,並非是人們想東想西,也不是自己絞盡腦汁的成果,而是憑藉亡者的恩惠去做。這才應該是想像力。在自己腦袋裡面打轉的事情,我不認為可以稱作想像力。

      舞踏とは何か。土方さんが、「舞踏とは命がけで突っ立っている死体である」、こう言った。これはどうも技術を超えた世界のように思える。想像力という問題だけを考えても、自分が想像力を作ったんじゃなくて、天地の始めから現在にいたるまで、先人が死んで、魂に刻み込んで、外側から、宇宙の側から刻み込んで、そういう長い億単位という年月のなかで、想像力というものが、積み重ねのなかで生まれた。たくさんの積み重ね。そのなかの自分。そのなかでは、テクニックなんてのは簡単に取り上げられるものじゃないと思う。技術とは何か、と言ったときに、困難のなかにある、それが技術だ。頭の中で考えると、だんだんはっきりするのが技術ですよ、普通の常識からいえば。それがますますやるほど困難が入り込んでしまってさ、にっちもさっちもいかなくなる、というのが技術だと思う。私にとってね、技術的側面なんて書こうと思っても書けない。書けないのが技術だと思う。
     所謂舞踏是什麼呢?「舞踏是一具賭上性命立起的屍體」,土方先生是這樣說的。令人覺得這早已是超越技術的世界。即使只考慮想像力的問題,那也不是自己創造出來的想像力。從天地創始之初到現在,先人逝世,然後刻進了靈魂,從外側、從宇宙那側刻劃上去。在那漫長的以億計算的歲月下,所謂的想像力,就從層層的積累交疊中誕生出來。真是許許多多的交疊累積呢。身處其中的自己。在那裡,技術這種東西令人覺得不是輕易就能取得的。當有人說技術是什麼?存在於困難之中的,那就是技術。從一般常識來說,一旦在腦海中思考,然後漸漸變得清晰可見,那就是技術吧。但是越做越深入時困難也隨之鑽入,最後變得寸步難行,我覺得這才是技術。對我來說呢,就算想描寫技術性層面的事情也無法做到。技術是寫不出來的。

      できたなら踊りをやるとき、暈狂う舞い、そういう踊りをいつもやりたいものだと思っている。狂気という言葉があるわけですよ。赤ん坊の泣き声もある意味で。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、わからないけれども、あらゆる思いが込められている。それからお母さんのおなかの中。お母さんのおなかの中でありがとうって生まれてくる。ただおぎあ、おぎあ、おぎあ、と泣いているのか。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、わからないけれども。ある意味で狂気だと思う。命の誕生は狂気に繋がる。
      可以的話在跳舞之時,就暈眩狂亂地去舞,我一直都想跳那樣的舞蹈。有個詞彙叫作狂癲。某種意義上小嬰兒的哭聲也是這樣。他是開心嗎?難過嗎?雖然不知所以,但是包含了全部的心思在裡面。然後從母親的腹中,從母親的肚子裡抱著感謝的心情誕生下來。他僅僅是哇、哇、哇地,哭泣著嗎?是在喜悅嗎?是在悲傷嗎?即使不懂,在某種意義上都應該是一種癲狂。生命的誕生與狂癲緊密相連著。

      踊るときには、魂が先行する。人間が歩くときは、足のことを考えますか。誰も考える人はいない。子どもは、こっちへおいで、と呼ばれて、おかあさん、と、こういくでしょう。命は、いつもそういうものですよ。じっとしていない。
      跳舞之時,靈魂會作為前導。人們走路的時候,會去想到腳嗎?沒有人會去思考這個。小孩子一聽到,過來這裡,他就會口中念著,媽媽,然後就走過去了對吧。生命總是如此喔。不會停滯不前的。

      おまえが眠っているとき、戸惑ってるとき、ものすごいスピードで運んでいる。だから安心したまえ。おまえの内部には、銀河鉄道に対応する銀河があるのかもしれない。
     當你在睡夢之中、在猶豫不決時,已經以迅雷不及掩耳的速度在運送。所以放心吧。在你的內部,或許有條能夠比擬銀河鐵路的銀河也說不定。

     休息の場所では、ただ自分がどうしたらいいかと考えるだけではなくして、死者との会話が、そこで行われる。生きている人の恩恵も受けておるけれども、私のお父さんお母さんも、死んだお父さんお母さんの恩恵を被ったわけじゃないかと思う。そういう恩恵を受けるんだけど、自分のなかに積み重なっておるんですよ。だから休息にいったときに自分のなかに積み重なっておるなら、死者の恩恵、死者と話す。そういう積み重なったものがたくさん詰まっているから、いろいろ教えを受けることになると思う。だからあるときは、冥府の死者、冥土の死者、死んでからさまよう場所の死者が、自分のなかで時を超えて「あんたどうしたの」と働きかけてくることもある。自分のなかから冥府の死者、冥土の死者に働きかけ、向こうからも働きかけてくる、どうしたらいいか、という働きが成立する。そういうなかで稽古をできるだけ自由にやってください。
     在休息之處,並非只是思考自己接下來該怎麼做。與死者的對話,就是在那兒進行的。雖然所受的是生者的恩惠,然而我的父親母親,應該也是蒙受著他們死去的父母之恩惠。受到了那樣的恩惠後,就在自己的體內堆積起來。因此前往休息時,如果能在自己裡面累積,就能與死者的恩惠、與死者直接對話。因為那樣的累積已堆得滿滿的,我們才因此學到了很多東西。所以某些時候,那冥府的死者、陰間的死者,逝世之後在徬徨之地的死者,也曾穿越時間在自己裡面鼓噪著說「你怎麼了」。從自己裡面鼓動著冥府的死者、陰間的死者,他們也鼓動著自己,該怎麼辦才好?於是那作用形成了。在那樣的狀態下請盡可能地自由練習。

     はらわたの中から聞こえてくる。交響楽のような音楽が、はらわたの内部で演奏される。はらわたが演奏する。石にだって、石にだって交響楽を奏でることができる。石にも、はらわたがあってね。そして、はらわたを引きずりながら、取り出して演奏するそうだ。はらわたの交響楽。おまえが演奏したんじゃないらしい。石だよ、聞こえてきたはずだ。今だってそうだ。広い伽藍のようなところからの響きのようでもあるし、まるで閉じ込められてまったく動きのとれないような、そうであっても美しく響きわたる。おまえのその動きは魂が受け取った、感動そのもの。そうだ、あれは魂が受け取った。過去の感動が未来のように輝きを持っている。はらわたのダンスだよ。おまえのダンスじゃない。
     從腸子中傳出,彷彿交響樂的音樂,在腸子內部演奏。五臟六腑在演奏。就算是石頭,一顆石子也可以奏出交響樂。石頭,也是有腸子的。然後,似乎是邊拖著腸子邊拿出來演奏的樣子。內臟的交響曲。好像不是由你來彈奏。是石子喔,你應該聽見了。至今依然如此。猶如是在廣大寺院一樣的地方響起,即便被重重關住無法動作,依然美妙地迴響。靈魂領受了你的動作,是感動本身。沒錯,那是靈魂的領受。過去的感動如同未來一般閃耀著光輝。這是內臟的舞蹈喔。並不是你的舞蹈。

      ところが、わかりましたっていうなかにも、ちょっと違ったニュアンスがひとつあるんだな。それは、三島由紀夫さんが生きておったときに、いつも見にきてくれて、済むとかならず、まあ銀座あたりのどっかに連れていってくれて、それで私は三島さんの隣に座って、かならず言われるのは、「大野さん、うまいですね」。うまいですねってこう言われるんです。そうするとなんとなく、褒められているのか貶されているのかわからない、いう感じあるけど。しかし私は、三島さんとか澁澤さん、土方さん、あんまりうまくなるなって言いますよ、私の息子もそういう。あんまりうまくならないように、器用にならないように、飾らないように、下手でも良いから、という言葉使う。私は三島さんのそのことずっと考えた。そしたら、三島さんも澁澤さんも、直接ではないかもわかんないけど、私を一所懸命鍛えてくれた。三島さんも澁澤さんも、私を一所懸命鍛えてくれた。土方さんも私のそばで鍛えてくれたろう。たとえば刀鍛冶ですよ。渋澤さんが、焼いて、トントントントンってこうやって、トンってこういった、そのときに三島さんもそこにおったっていうんですよ。トン、トン、トン、ってこういった、そうすると土方さんがちょっと離れたところで、へいっ、へいっ、て気合いをかけてて、へいっ、へいっ、そうすると、職人ですよ、ある意味で。職人ていうのは、お金儲けよりも何よりもいいものを作りたい。ものの役に立たなくても良いからいいものを作りたい。始まったらやめることができないくらい、こうなってしまうわけですよ。私は、芸術家って言葉はあんまり好きじゃないんだな。三島さんあたりでも、澁澤さんあたりでも芸術家って呼ぶよりも職人、私は自分もそう呼ばれたいし、できたならば、三島さん澁澤さん、土方さんに対しても、職人。こんなこと言うといろいろ意見があるからね、言えないだろうけど、三島さん腹切って死んじゃった。芸術家は腹切って死なないですよ。私は離れたくないからさ、三島さん、澁澤さん、土方さん、離れたくないから、私はあの三人、職人だと思っている。私も職人だと思っている。芸術家って言われるとなんとなくいやな感じがする。職人だと思っている。昔から私そう思っている。
     話說回來,「我知道了」這句話的涵義當中,有個說法會有稍微不同的語氣。那是,三島由紀夫先生在世時,總是會來看我表演,結束後不會離開,總是會帶我到銀座一帶,然後我坐在三島先生旁邊,一定會被他說:「大野先生,真是不錯耶。」總是受到他真是不錯的稱讚。但一被這樣說,每次都隱隱猜想這到底是褒還是貶?會有這種感覺。不過,對三島先生啦,以及澀澤先生、土方先生,我都會跟他們說不需做得太好喔。對我兒子也是一樣。不要做得太完美、不要那麼精巧、不要過多裝飾,就算笨拙點也無妨,會這麼地說。不過我還是一直在思考三島先生所說的話。得到的結論是,三島先生還有澀澤先生,或許不是很直接,但都是在盡力地鍛鍊我。三島先生及澀澤先生都是,很努力地在鍛鍊我。土方先生應該也是如此地在我身邊訓練著我吧。就像鍛造一把刀。澀澤先生,燒紅了烈火,然後像這樣咚咚咚咚,以此方式咚咚地敲打。此時三島先生也在旁邊喔。同樣這般地咚、咚、咚。之後土方先生在稍微遠一點的地方,嘿、嘿,出聲助陣,嘿、嘿,於是,在某種意義上,他們都是工匠啊。所謂的工匠,比起賺錢或者任何事情只想作出好的東西。即便派不上用場也不要緊,就是希望能做出好的作品。而且是到了一旦開始就不會放棄的程度,是會變成這樣的喔。我啊,不太喜歡藝術家這個字眼。像是三島先生,或是澀澤先生他們那種類型,與其說是藝術家不如說是工匠更好,我自己也希望能被這樣稱呼,如果可以的話,對於三島先生、澀澤先生與土方先生都該稱他們為工匠。我這麼說肯定會招來許多意見,這些話應該不能說吧,但三島先生是切腹身亡的。藝術家不會以切腹來自殺啊。我不想距離他們太遠。不想離三島先生、澀澤先生、土方先生太遙遠,我認為他們三人都是工匠。而我也是一名工匠。如果被稱為藝術家總覺得不太舒服。我認為我是一名工匠,從以前就是這麼想。

      息子とデュエットした。廃園ですよ。廃園。もう使い道にならない公園。荒れ果ててしまって、もうなにもないんですよ。草が生えていたけれど、寒気がきて、草がなくなってしまった。何もない。何もないけれど、すべてが備わっている世界があるんですよ。何もなし。NOTHING だけどすべてが備わっておるEDEN’S GARDEN 。そういうところで二人ずつデュエット。関係づけない。とにかくある。存在している。存在を許されている。私の踊りのなかでさ、そのデュエットが一番感動的なんですよ。そのためには相談なんかしないですよ。まして動きをこうしろああしろとか全然ないんですよ。
     與兒子合舞。那是廢棄的庭園喔。荒廢的庭園,已沒有任何用途的公園,完全地荒廢虛無,什麼都沒有了呢。雖然草地還在,但寒風襲來後,連草也消失殆盡。什麼都沒有。雖然什麼都沒有,卻是個什麼都有的世界喔。空空蕩蕩。雖然NOTHING卻是個一切俱足的EDEN’S GARDEN。在那樣的地方兩人共舞,不刻意去連繫。但無論如何仍是有的,仍是存在著,容許這樣的存在。在我的舞蹈中呀,那樣的合舞是最令人感動的啊。因此根本不用特地去討論喔。更別提會指定要這樣那樣地動作,完全沒那回事喔。

      どんな足取りでアルへンチーナと出会うことができたんだ。死体を踏みしめ踏みしめ。おれは歩むことができなかった。そのときにアルへンチーナが手を差し伸べてくれた。
      ごめんなさい。ありがとう。そんな言葉はとても通用しそうにない。それは一人の人間の思いでなくして、それは世界なんだ。無限に拡大する宇宙なんだから。
     是要踏出什麼樣的步伐才能與阿根廷娜相遇?踏步走過屍體,一步一步。但我踩不出那樣的腳步。就在那時,阿根廷娜對我伸出了手。
      對不起。謝謝。這樣的辭彙似乎完全不適用。那並非屬於某一個個人的思緒,而是整個世界的。因為那是無限寬廣的宇宙。

      さあ、一筋に息切れるところまでいってしまえ。途中で何か持ち込まないように、いききれるところまで突入していく。そしてその突入していくなかであなたが変貌するならば、それはいいでしょう。しかし変貌もなく突入なんてありえない。変貌して突入していけば、必ず変貌していかざるをえない。しかし、一筋にとにかく入り込んで、とにかく入り込んで、なかへ突っ込んで、突っ込んで、突っ込んで二五分やってみる。それはどういうことなのか。いくところまでいく。今あなたがある。その今あることとどういう関係にあるのか。極限まで入り込まないと、常にいくところまでいくんだから、極限まで入り込むでしょう。あなたの肩が極限まで入り込んでいるかどうか。目が極限まで入り込んでいるかどうか。首がどうか。指先はどうか。テンポはどうだい。同じテンポでどこまでもいくのか。刻々にテンポは変わるのだ。それは時間じゃないでしょう。いくところまでいく。惰性の連続じゃない。私は宇宙の中まで入りこんでしまう。私の背中は宇宙の部分だ。入り込んでしまったときに奇妙に物が見える。何が見えたっていいでしょう。
     來,一股勁地做,直到上氣不接下氣。過程中注意不要夾雜其他東西,就這樣衝進去直到喘不過氣。然後如果在衝進去之中你有所變化,那是很好。然而不先有改變是不可能衝得進去的。改變後再衝,那麼無可避免地必然會產生變化。但是要一心一意地鑽入,總之就是鑽進去,一頭栽進裡面,深入下去。就來深入個25分鐘試試看。這是怎麼一回事呢?直至你能及之處。你擁有著當下,你與它有什麼樣的關係?不進入到極限是不行的,因為總是竭盡所能地向前,才能鑽入那極限之中吧。你的肩膀有沒有進入到極限?眼睛有沒有進入到極限?頭部呢?指尖呢?節奏又如何呢?能用相同的節奏前往任何地方嗎?節奏時時刻刻都在改變著。那並非和時間有關對吧。直至能及之處。並非慣性的連續。我探進了宇宙之中。我的背是宇宙的一部分。鑽進去時看見了奇妙的東西。不論能看見什麼都可以吧。

      ゆっくりでいいからあらゆる瞬間が生きている。あらゆる瞬間が世界を形成しているように。足のウラであろうと背中であろうと一つになって世界を形成しているように。ゆっくりやったほうがいい。それを魂に染み込ませるように。
     慢慢來沒關係,每一個片刻都是活生生的。如同每一個瞬間都在形成這世界一樣。無論是腳板或是後背都合為一體,就像正在構築這個世界。不慌不忙比較好。這是為了將它浸透至靈魂之中。




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